昭和43年7月21日 夜の御理解



 第44節に、「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」とあるですね。ですから、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心する、その楽しみに信心するという、そこのところがね、万物の霊長らしい信心をしなければならないということになるんですね、万物の霊長らしい信心、うん。
 だから、死したる後、神にまつられることを、また神になることを楽しみの信心。だからその楽しみの信心というところを、今晩は、ひとつ皆さんが、同時に人間は万物の霊長であるからと仰るその万物の霊長らしい信心。それには様々、やはり、いかがわしい、または実にお粗末限りない信心があるんですよね、うん。
 ですからここんところをね、ひとつ、万物の霊長らしい、人間らしい、ね、人間が見て、その人間のしておる信心をおかしいなあと思われるような信心であったらもうそれはおかしいんですよね、実際。うん、ね。
 今日は先程、若先生も一緒に入ってもろうて、昼の御祈念の雰囲気とか様子について、私は皆に聞いてみたんです。それも何人もからいろんな話があったんですよね。昼の御祈念のあの一生懸命の御祈念に触れると、もうあの入り口に入ったばかりでね、感動するという人達もある。かと言うと、あの御祈念の様子を見てから、もう合楽の信心に幻滅を感じたという人もあるわけ。
 もう現にここで信心しておる人達ですらがですね、もう一遍蹴りで、ね、だから今朝の御理解などを頂いておると、あれにでもやはり合流して、やはり信心には遊びがなからなければならない。というような意味合いにおいてはね、だから今の昼の御祈念に集まって来ておる人だけはあれでいい、ね。
 よく、テレビでね、2、3日前、ある方が導かれて参って来た。それでもう、導いた方に言うんです。もう私は合楽の信心に幻滅を感じたっちゅう。もう本当に合楽の信心の話を聞いて助かるとばっかり思うとったら、まるきりちゃんとテレビであの祈祷師がね、祈祷師が祈り殺しの場面があった。もうあれといっちょん変わらんごとしてこうこうやってから、わめくようにしてからしよんなさるけん、もう私はあれ見てがっかりしたっちゅうてから、言うた人があったと言うて今日そのお届けがあったんです。
 佐田さんなんかもやっぱり新しい方をお導きしたんですけれども、あの昼の御祈念の様子だけは自分は有り難く頂いとるけれども、新しい人には見せたくなかったと言うておられます。だからその時間を食堂に連れて行ってご飯食べさしたりしてね、その時間を稼いだと。だから佐田さんだけじゃない、これ今の話は秋山さんの話ですけれども、もうまだいくらもある。
 そして実際に一人一人に聞いてみると、やはりちょっと度が過ぎるなと。私達も随分いろいろな一生懸命の信心をさして頂きましたけれども、姿勢、形を崩したことがありませんでした。どんなに大祓をあげるでも。だからもう、こんなこともしたことがありませんでした、まるきり(こんなかかる?)ね。
 だからもう、とにかく力を入れなければならんのが、とにかく膝の上に両手を組んでその自分の手がもうちぎれるぐらいに一生懸命にぎっておられる、ね。体をこうこうすることはいらん、膝までこうこうやることはいらんて。そんな人があるってご本部では、ね。それは一生懸命の姿である。今日の御理解から頂くとです、どうも人間の信心にしては、人間が見ておかしいて。けれどもね、あの一生懸命の、もう汗水流して一生懸命に御祈念をしておる人の姿は尊い。
 けれどもその自分の形を崩してです、それこそ脇から見たらおかしゅうてたまらんといったような私はことはね、これはやっぱりいけないと、ね。私は人間は万物の霊長であるから、万物の霊長としてのやはり形も姿も、ね、堂々たる私は信心、御祈念態度というものを自分のものにしていかなきゃいけない。
 だから、先日から初めて若先生があのたすき掛けでやった時に私はもうそん時すぐ申しました。まるきり親の仇でもしやるごと、いやしくも神様の前で御祈念するのぞと私は言うたですね、うん。それこそ、威儀を正して、それでなかったらもう、ね、ならランニングシャツ一枚でんよかと(笑)、ね、だからあげなことやめろと、私はまあ申しましたんですけれどもね。
 あの一生懸命の姿に触れて感動する人があり、もう幻滅を感じたという人がある。けれども、なら今晩の御理解頂いておりますとですたい、ね。言わば楽しみに信心しよる。神になり神にまつられることを楽しみに信心する。狐狸ですらと、ね。それが狐狸の類の、言わば信心というようなのがありましょうが、ね。例えば昨日か何かもテレビでやっとりましたよ、遅うに。
 ほんに、女の祈祷師がやっぱり、私共も着ておる装束を着けておるとじゃん。してからあの(?)ば持ってからこうこうやってから、家中祓うて回るとですよ。そいでもう、きちがいのごとしてからばたーっと倒れてですね、もう死んだもんのごとなっとる。そしてその霊の声を出してからですね、もう私はこんな所には呼んじゃくれんのとなんて言うんです。
 あげんとはもういよいよ、狐狸の類の信心です。それに間違えられるて、ね。ですからもう、どこまでも男性は男性で、的にですね、もうそれこそ堂々たる御祈念。例えばそういう意味合いであの若先生やら末永たちの大祓をあげて、奏上しての態度はとてもいいと思うんですよ、ね。
 ただ、それがね、体を動かしたりね、こうこうなったりというのは一生懸命のあまりにそうなるのかもしれんけれども、自分が心がけておきゃ決してそんなものは、そんなことないです、ね。かすかに体動くようなことです。一生懸命力を入れますから。ほんなもう、誰が見てもやはり有り難い、ね。誰が見ても感動する。
 信心に遊びがなからなければならない。今朝の御理解頂いておるとです、あれでもいいのですけれども、今日の御理解から頂いてから、ね、人間は万物の霊長であるから、ね、霊長らしい信心。それには、なら霊長らしい信心、態度。そういうものが、また必要であることも分かるですね。ですから新しい人は、参って来んでしょう。もうそれを見せたくないって、一生懸命の人がそれを思うんじゃけん。
 あの姿に触れさしたくないってこういうわけ、ね。とにかく、有り難いですよと言えない、ね。自分達は、いわゆる遊びをもっての、もうとにかく親先生を中心にしてのああいう御祈念会があってのだから。もうそれに合流するという気持ちだから皆が着いて来るけれども、ね。でなかったら着いてよう来んです。また、合楽の信心はどこまでも何と言うても、話を聞いて助かるのである。
 ただ、祈念力があまりに御理解力が徹底しておるために御理解が、祈念力が疎かになっておったところをです、この祈念も絶対のもの。それをあの一生懸命の御祈念の力を養うということはよいけれども、結局、自分の形といったようなものをですね、態度といったようなものを、霊長らしい態度をもって神様にのぞまなければならないということですね。どうぞ。


明渡真